薄暗い黄昏時。
それでも裸足で歩くには熱を帯びすぎた砂粒。
世界は夏の始まりを告げた。
奈落へと引きずり込む波と心の冷たさだけが、夏の終わりを許してくれた。
置いてけぼりのかたっぽだけのビーチサンダル。
その主は疎ましむはずの両親の腕の中に帰った。
造りかけの砂の城。
爪先で蹴り崩す。一思いに。左半分だけ剥がれる。
聞けない、自分を引き留めた声。
絡まない、夕焼けに馴染んだあの髪一筋さえ。
触れられない、幼さを伴う頬の赤らみ。
ずっと、ずっとあの日々に浮かされたまま。
数え切れない時を刻んだ。
指折り数えた毎日。今は遠く紛れていく。
たった一人の掌を求めて。
「誰の事を考えている?」
鷹か、―――或いは鷲のようだ、と思った。
狙い澄ましたように聞いてくる。
「別に。何と言ってもどうせ信じぬのであろう。そなたの自由に妄想するが良いわ」
「随分きっぱりと言うな」
「ボケたか金蔵。半世紀分の自分の行いを思い返してみることをオススメするぞ」
さらさらと砂石を擽る漣が鴇鼠色の貝殻を打ち上げ、殻の破片がベアトの踵を弄ぶ。
踏み付けて進む。深淵が支配する水平線へ。
金蔵の靴底が擦れる音が聞こえる。
どうやら追い掛けてくるつもりらしい。今宵は自由にさせてくれるのではなかったのか。
――――心配性だな。
そう笑える自分に驚く。
「答えろ。誰の事を考えた?」
「今はそなたのことを考えておるぞ」
ドレスが水分を吸って余計に重い。気付けば水位は膝を越している。
どうりで身動きが取れないわけだ。
「………ッ………ぁ」
それでも尚、歩く。無様に、滑稽に。
その姿には魔女の婉然とした威厳などなく、女神のような神々しさもない。
――――ただ、『愛』を知った一人の女の、いじらしさがある。
暫くの間、金蔵は脚を動かすことが出来なかった。
籠女 籠女
籠の中の鳥は
いついつ出やる
夜明けの晩に
鶴と亀が滑った
後ろの正面だぁれ?
澄んだ歌声。乱れて色香を増す髪。項。哀しい詞。
「質問を変えよう」
「何であるか」
言葉だけで応える。振り向きはしない。
「お前は、誰に逢いに行くつもりだ?」
「――――え?」
脚が止まる。
その刹那、ほんの一瞬の隙に、後ろから抱きすくめられる。いつの間にこんなに近くにいたのだろう。
じわり、と染み込む彼の温もりが、ベアトの体温を取り戻す。自分が冷え切っていることに初めて気付いた。
「金蔵、暑い。離せ」
「諦めろ。もう夏だということだ」
「それは関係ないであろう」
律儀に疱く振りをして。逃がさぬよう腕を強められると、静かに躯を預ける。
脇目に―――金蔵の肩越しに広がる浅葱色の空。太陽はもう沈みきっている。
悔しいほど綺麗だった。残り香でしかないからこそ。
「逃げられるなどと、本気で思ってはいないわ」
無意識だった。
ただ、吸い寄せられるかのように。逃げられると追いたくなるのは、どうやら男だけではないようだ。
「――――死ぬ気だったのか?」
「わからぬ」
男の表情が険しくなったのがわかる。一度目はそうやって逃げられたからだろうか。
「魔女にとって、肉体の死は大したことはない。そうであろう?」
自嘲気味に言ったのは、人間はたった一度で死ぬから。愛する男――――否、少年は、紛れも無くニンゲンだから。
生き永らえることを望まずとも、肉の檻から逃れ得ぬ我が身を蔑む。
「行くな、行かないでくれ、何処にも、誰の元にも」
老獪な男のしわがれた声が、耳元で囁かれる。
ベアトは唇を噛む。
(やめてくれ。悪いのはそなたではないか。何故、妾に罪悪感を持たせる)
「わかった、だから離せ。暑いと言っておろう」
「私ではなく夏に言え! 私は離さぬ!」
「……もう、夏は終わると言ってくれ」
真摯な眼で射抜いた。金蔵は瞠目し、眉をひそめる。
ベアトは、『ああ、わからないのだ』と悟る。
「まだ、始まったばかりだぞ? お前は夏が嫌いなのか。意外だな。喜んでいるとばかり思っていたが」
「――――うむ。嫌いだな」
今宵はまだ月も見えぬけれど、そろそろロノウェ達が待っているだろう。
この姿で帰ったら大目玉を喰らいそうだ。主にも容赦のない家具共が。
魔法で乾かす気分ではない。責任持って気合いで乾かしてもらおうか。
これから夏だと言い張る男に。
――――永遠に魔法の使えぬ男に憐れみを。
――――慰めも得ぬ魔女に嘲笑を。
10月は、まだ来ない。
(取り残された者達の楽園)
PR